アメリカにて。 - ドメスティック日本人一家の滞米日記

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No.0

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05

12

00:04
Thu
2011

No.055

海外転出届け、婚姻証明書類

今回はお役所関係について。いささか苦手な分野です。


海外に1年以上居住する場合、海外転出届を居住地の市町村に提出します。
出発予定日の2週間前から可能です。

メリットは
・住民税を払う必要がない
・国民年金の強制加入義務がなくなる。任意加入が可能。
 (海外在住期間は受給資格期間として合算してもらえますが、
  当然、受け取る年金額は下がります。)

デメリットは
・国民健康保険から外れる(一時帰国したときに病院にかかると全額負担)
・こども手当て、児童手当がなくなる


我が家は両方の実家から離れた賃貸住宅に住んでいました。
こういう場合、2週間くらい実家に住民票を移し、免許証等の住所変更をしておくと
帰国したとき便利なようです。
海外転出届は実家のある自治体に出すことになります。
でも、我が家はやりませんでした。
夫と出国日に3ヶ月の時間差があったのでできなかった、
子供の医療費助成やこども手当ての手続きをやり直すのが面倒、というのが理由です。
それに無収入の母子世帯ってなんか外聞悪いし~、という日本人的な理由もあり。


お次はアメリカ側。
夫から、私のSSN(Social Security Number、納税者番号みたいなもの?
アメリカで社会生活を送るには必要不可欠らしい)を取るために、婚姻証明書を
取って来い、と言われました。
しかし、調べてもそんな書類はありません。

どうやら戸籍謄本とその英訳で代わりになるようです。
こちらのサイトを参照させていただきました)
で、私はすっかりそれを忘れていたので、関東にいる最終日、月曜の
朝一で市役所に行かなくてはなりません。
不動産屋さんに立会いの時間を変更して貰わなければ。とほほ。

05

07

17:41
Sat
2011

No.054

引越し準備

現在、引越し準備真っ最中です。

■持って行くもの
 航空機
  □預かり荷物
  □持ち込み荷物
 航空便(約1週間)
 船便(50日前後)

■置いておくもの
 私実家に
  □妹にあげるもの
  □母にあげるもの
  □保管しておくもの
 夫実家に
  □保管しておくもの
  □義妹にあげるもの
  □義弟にあげるもの

■捨てるもの
  □可燃、不燃、資源…etc

などなど、荷物を細かく分けなければなりません。
部屋が狭いので、分類したものを置いておく場所にもひと苦労。
その他にも掃除、各種手続き…やることは山積みです。

5/3から片付けはじめて、もう何袋ゴミを出したことか…
今日は夫の両親が来てくれて、夫の実家行きの荷物を運び出してくれました。
それでやっと段ボールを置く場所が確保できたような塩梅です。


日本を去るとなると、あれも欲しい、これも買っておかなければと
買い物も大変です。
肌着(特に子供の)、化粧品、和食器、和食の調理道具(すりばちやおろし金、巻き簾etc)
市販薬、書籍、文具などなどを、買いあさりました。
米国にいる夫からリクエストがあったものは以下のようなものでした。
洗濯洗剤や柔軟剤(あちらのものは香りがキツいので使いたくないそう
       また、襟汚れに付けるプレケア的なものが売ってない)
髭剃りの替え刃(ショーケースに入って売っているので、店員を呼ばないと買えないらしい。
        店員に話しかけるのが嫌(おいおい)、また高価いらしい)
ボディーソープ(これも香りがキツい)
トイレ用のファブリック(売ってないらしい、ほんとかなぁ)
スリッパ(家の中も靴なので、売ってないらしい。ルームシューズとかありそうな物だけど…)

夫は、香水が大嫌いな極端な匂い嫌いなので、ダウニーのように香りの強いものでも
OKな人はあちらのものでも平気だと思います。

いよいよ出発が、あと2週間に迫ってきました。
奇しくも6年前に結婚式を挙げた同じ日に、新しい旅立ちです。
04

28

23:31
Thu
2011

No.052

夫、渡米。そして大震災

三月一日、私達は成田空港に居ました。
一足先に渡米する夫を見送るためです。夫の両親も来てくれました。

この時点では、私と娘は親族の結婚式に出席した後
6月末に渡米する予定だったので、夫には約4ヶ月単身赴任をしてもらうつもりでした。
4ヶ月も離れ離れ、しかも異国で…私と夫は別れを惜しみたかったのですが
娘は相変わらずまったく空気を読まず、逃げる、遊ぶ、騒ぐとやりたい放題。
結局娘を追い掛け回しているうちに搭乗時間が迫ってきてしまいました。

「じゃあ、頑張って」
「お互いに」

夫はあっさりとゲートに消えていきました。


十日後、平成二十三年三月十一日。午後二時四十六分。

後に東日本大震災と呼称される巨大地震が発生しました。
津波、そして原発の爆発。たくさんの大切なものが奪われ、破壊され、汚染されました。
その絶望はいかばかりか、直接の被災者でない私には推し量ることすら憚られる程です。

本震は静かに始まり、次第に強さを増しながら長く続きました。
その後のニュースの津波映像は地獄の光景でした。
そして福島第一原発で冷却機能が失われたとの知らせ。
私は娘が寝入った後TVを見ながら眠れぬ夜を過ごしました。
翌十二日夕方に、福島第一原発一号炉で爆発的事象が発生とニュースが入りましたが、
それは爆発発生から二時間近くも経過した後でした。

「あ、これはやばいわ」

私は荷物をまとめ、娘の手を掴んで電車に飛び乗りました。
関西にある私の実家に向かうためです。
政府、マスコミ共に原発に関してまったく事故を想定しておらず、
情報を開示すべきかどうかすら決まってないのだろう。
そういう印象を受けました。

夫が不在の今、放射性物質が飛来するかもしれない関東にいる理由は
ありませんでした。夜9時を過ぎた新幹線ホームは
ビジネスマンや観光客らしき外国人でいつも通りの賑わいを見せていました。
結局実家に着いたのは深夜2時を過ぎていました。
娘に無理をさせ、両親は呆れ顔でしたが、その後の計画停電初日の混乱や
水道水の汚染のニュースを見て納得したようでした。

夫には携帯メールやスカイプで連絡をしていました。
夫は単身赴任の上司の家に仮住まいをしており、渡米直後でも
ケーブルテレビ(ジャパンチャンネル)でニュースが見られたこと、
ネット環境もあったことは非常に助かりました。

関東では複雑怪奇な計画停電に加えて買占めのため物資が不足し、
ガソリンスタンドが営業停止になるなど混乱は続いていました。
真っ先に逃げてしまった自分がうしろめたく、
友達からの安否確認のメールにも返信ができませんでした。

TVニュースやネットを見たくはあったのですが、ショッキングな映像だけでも子供が
PTSDになるという新聞記事を見た両親が、娘がいる間居間でニュースをつけない様になりました。
情報は畢竟、ネットに偏っていきました。
関西は全くの平常運転。両親とは危機認識度合いが違いすぎ、話もできません。
娘を遊ばせるために外に出れば、そこは日本の春でした。
菜の花やつくしが顔をのぞかせ、うららかな日差しの中でひばりが鳴いています。

被災地にはまだ雪が降っていました。


04

26

15:57
Tue
2011

No.051

ビザ取得

アメリカに長期(90日以上)滞在しようと思った場合、まず第一のハードルがこのビザの取得です。
ビザは留学用、ビジネス用、観光用などなど多岐にわたり、
ビザ取得の代行ビジネスが成立するほど取得条件も複雑です。


駐在員の取得するEビザ、Lビザというのは
管理職や特殊技能者に与えられるもので、若い人は
理系の研究員や技術者でもない限り、拒否される場合もあるようです。
実際、友達に「会社の先輩が2度も撥ねられていた」などと聞いて
私達は怯えておりました。

面接日も近づき、書類を揃えて、DS-160に電子登録をしました。
写真の用意が少し面倒でした。我が家ではデジカメで撮った写真を
フォトショップエレメントで加工して作りましたが、
機材がない場合はいっそプロにお任せしてしまったほうがいいかもしれません。
サイズ、明るさ、顔の割合などについて細かく規定があり、プリントしたものと
デジタルデータの両方が必要になります。


そしていよいよ面接日。私達はいやがる娘を一時預かりの保育園に放り込み、
虎ノ門にある米国大使館に出掛けてゆきました。
(12歳以下は面接は免除されるそうです 2011年4月現在)
寒風吹きすさぶ門の前には、既に大勢の人が並んでいました。
まずは屋外で警備員さんによる手荷物検査を受けます。
飲食物は持ち込めませんが、ここでBOXに預かって頂けました。
ここで係員の方に書類を渡し、受付番号を貰いました。

そして検査場に入り、飛行機に乗る時のような金属探知機での検査を受けます。
電子機器類はここで一時預かりとなります。

ビザの申請場所は市役所の窓口のようなところで、
置かれたベンチはほぼ埋まっていました。100~150人はいたでしょうか。
病院の待合所のような電光掲示板があり、受付番号が呼ばれた順に
指紋採取、面接となります。
夫は青い顔で英語の想定問答集を睨み付けていました。
居並ぶ人たちはアジア系が殆どで、少数中東系の人がいました。
面接時間は一分ほどの人から、話し込んでいる人までさまざま。
緊張は嫌が応にも高まります。


指紋採取まで一時間以上は待ったでしょうか。
ここで私は、身長が低すぎてカウンター上の指紋採取の機械に
親指を揃えて付けられないという悲しい体験を早速してしまいました…。
お手洗いでも座ると足が付かずブラブラだったんですけどね。
流石アメリカンサイズ。

再び席に着くと、今度はすぐに面接の順番になりました。
質問はほぼ日本語のみで、各人にそれぞれ3問でした。
夫には名前の確認、勤続年数、職種の確認。
私には名前の確認、結婚してからの年数、子供の有無。
「許可されました。2週間程度で自宅に郵送されます」

ほっ…。正直、拍子抜け?この気弱そうな態度では
移民しようなんて夢にも考えなさそうなところが幸いしたのでしょうか。

こんな感じで、私のアメリカとのファーストコンタクトは終わったのでした。
数日後、パスポートがレターパックで無事返送されてきました。
パスポート3冊のそれぞれの一ページに、ビザがプリントされていました。
滞在可能期間は5年。これで第一関門を越えられたと、安堵する私なのでした。
直後に日本があんなことになるとも知らず…。
04

26

13:55
Tue
2011

No.050

はじめに

夫の仕事の都合で数年アメリカに滞在することになりました。
折角の経験なので、日々のつれづれを書き留めておこうと思います。

登場人物


アラサーからもそろそろ外れそうな主婦。
日本の同調圧力にはうんざりだがアメリカ的
個人主義もなんか怖い、よくいる中途半端な日本人。




同年齢の配偶者。まじめがとりえの会社員。
英語が苦手なのになぜかN.Y.勤務を命じられる。




2007年産まれ。幼稚園時代をアメリカで過ごすことになった。
可愛い盛りなのを利用して周囲の大人を意のままに操ろうとする。



こんなごく普通の一家でお送りします。宜しくお願いします。
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